入会権について・委員会質疑
山梨県林務の入会権についての認識のなさには驚いた。
山梨県議会議員 白壁賢一
入会権は権利を搾取された我々人民と国家権力との戦いである、その資産を受け継いだ山梨県にとっては真っ向から否定したいのが入会権であろう、今回、改めてそのことを強く感じた。
民法とは?明治初期の判例から北富士演習地問題の解を求め県立図書館行く、そこには、研究者たちの入会権に対する本が山とある、中には政府の依頼で書いたような馬鹿げた本もあるが、殆どのものは的を得たものである。
明治政府が民間に売却せずに御料地のままで管理しその後(明治44年)に下賜したことは確かにその通りではあるが、その前が問題でなのである。
☆ある泥棒が盗みをしました、そこで盗んだ現金を恵まれない子供たちに寄付をしました、この泥棒は「良いことをしたのでしょうか」????
明治からのことは、ものの本にもよく書かれていますが、その以前のことはあまり見掛けません、今回は、我々平民の先祖の入会慣習のことを書いてみました。
我が国の上古時代には、人口が稀薄であり、国土は、いたるところ、山林藪沢に富み、良材あふれるばかりであり、その生活様式も、氏族団体の形態が取られ、山野の産物に対する著しい欠乏を感じなかったから、それらのものに対する私有財産的排他観念が薄弱であったし、それ故に、山林藪沢に対する管理利用の問題も、また切実なものとはなり得なかった。
たとえば「日本書記」のなかには、応神天皇の5年秋8月には、ウジノワキイラツコ王子をもって「大山守」に任じ、山川林野を掌らしめたということである。しかし、これは、かのウマヤドの皇子がいうように普天の下、卒土の浜というような凡ていっさいに対する所有観念を宣明したものであって、それらが、実生活の必要から、要求されたと言われるのは、僅少の開花した耕地であり、僅少の使用木材にたいする交通至便の場所を、主目的としているところの、漫然たる所有観念・・・したがって入会的な観念で考えられる内容・・実在・・があったと言うことを証明する。
すなわち、所有物に対する支配階級の要求も、一定の必要条件が生ずることによって、より深化するのであるが、そうでなければ極めて無関心である。したがって推古天皇時代の仏教的影響による大寺院、大伽藍の建立が頻発するようになると、木材に対する所有欲、猛烈に意識化してくることになるし、天武天皇5年5月、南淵山・細川山・機内山野にたいして禁伐林を設けたことなどが、かかる事情の一端を物語っている。このような古代法令によってみても、林野のうち、木材がとくに重要視されていること、特にそのうちでも、交通上の至便地が目的物となっていたが、その他の場所は禁令が出ないものとして容認されていたものとみられる。
この当時の史実を見ても、田や畑、乃地は交通至便の山林とうのが所有観念の中心であり、それらのものは、絶えず支配階級の狙っていたものであったことが理解される。しかし、それと同時に、この当時の農民が山野に対して持っている要求もまた、極めて低い程度のものであったであろうことは、その当時の農業生産方法及び農民の加工生産等の方法が幼稚であったことから想像するまでもない。蓋し一定の土地に対する要求の度合いは、それらに対する関係産業の存在性によって反映されるからである。したがって、上古に見られている入会関係は、近代的な農業、乃至は今日の手労働的農業方法によって存在される性質のものよりも、はるかに遅れた所の原始共産制度的を帯びていると言われるであろう、そして、その対象もまた、狩猟乃至果実、草根とうの原始的食料品の採取地と言うことのほうが、重要であったことを示している。建築をするにしても、農民は、それ自身奴隷的な地位に置かれているから、他の奴隷を搾取、大伽藍や殿堂を創ることがなかったし、したがって、木材等の需要はいささかなものと見られるし、農業に技術も極めて、素朴要地であったから、今日の農民が、入会地に要求する農業的な要求もまた欠けていたのであって、入会権の重要性は、客観的に、入会権者の生活保障としての背後的な援護仏陀お言う点では今日と一致するが、その内容は今日のそれと相違すること勿論である。しかしこの入会権は、私有財産制度の発展過程に入った当時の奴隷的農民にとっては大き意義と重要性とをもったと言うのは、かれらの生産方法が幼稚であるほど、かれらの生活を、かかる入会権に存在させる率が強化されたからである。
かくして第一期の入会権はルーズ法的観念でありルーズな存在として考えられるものでる。したがってまた、このことは当時の入会権が、もっとも原始共産制に近い形を取って、人民の入会にゆだねられていたことを立証している。このような入会関係が、その生産方法の進歩発展の結果、次第に近代的な所有観念の中に引きずり込まれていくのである。
大化の改新から鎌倉時代の入会権
大化の改新は、一応在来の形における私有制を抹殺することに成功した。
ただしこれは、新しい形の雌雄形態であった・・この場合林野を開墾するものへは、無料で三代一身法によって、土地を配当したものであった。けれどもこの三世代一身法は、かえって、土地の荒廃を招いたので、天平15ねんからは永久私有許すようになり、土地兼併の炎が天地を席巻するにいたった。
のみならず、寺院・伽藍の増設は、ついに材木の昂騰をきし、山林独占者に多大な利益を与えたのである。けれども、林野のまぐさ・下草の如きものは直接的には支配階級の必要物でないし、能古城の必須物であったが故に、桓武天皇は延暦3年、豪族の山野独占を禁じ、そして百姓一般の共同使用に供するための国憲を立てたと言う事が見える。
この時代は言うまでもなく、帝都の建設その他各方面に支出のかさんでいた時代であり、かかる支出は主として、働く農民からの租税に求める以外に道はなかった。このころは、今日の搾取状態の基礎が、工場労働者の可変資本から出発するに反して、往時は農業労働者からの徹底的な課税・徴収・使役の形をもってのみ成就していた、かくして往時の政府が、その課税の率を高める必要があればある程、働く農民の動き、収穫する領域を拡張することが考えられたのであった。かかる意味において、単に山林原野を権門のの独占から解放し、その下草や果実等を採取させることが必要的な恩恵的施設であると共に、他方ではまた別してそれらの権門の利益を侵害するものでもないと言う点で、容易に、このような政策がおこなわれたものとみられる。
桓武天皇は同10年にも、また繰り返し刺令を出したが、いまだ十分に励行されなかったので、17年に意を決して、王臣豪族の占有している山林原野を没収し、共同収益に供したけれども、それさえも、十分に行われなかった。
かくして、口に林野の統一、共同を叫んだけれども、その効果なく、その後200余年間、歴代の政府がこのことを指令したにも拘わらず、荘園制度が発生し、武家時代に入るに及んで、表面上の共同所有が一蹴されてしまった。しかし、当時の武士は、主として豪族を単位としていたものであり、豪族はその兵糧をうるためには農民を搾取しなけれならなかった関係から、山林原野の使用権もまた、暗黙の許容によって、農民の共産主義的入会にまかされていたのであった。
徳川時代以前の封建時代
この時代の林野使用権もやはり、ルーズ所有関係であって、山野、懇田や荘園でないところ、の使用権は、依然として公私共用に任せられていたし、それらの使用権は、当然のものとして往時の経済制度の上に合法化されていたものと言われる。
これらは、かの「貞永式目」の用水山野草木事中の、「山林藪沢は公私共に利すとて、自領、他領をいわぬ先例ありて、用水をも引き、草木の樵蘇をもするなり。武家もこの儀なり。但し地頭の立野、在林には寄せつかず」という文章によって、明瞭である。
ことに、封建制度時代に入るに従って、考えなければならないことは、豊臣時代の「知行制度」についてである。従来は、所領に対する所有の観念を持って表わされていた土地が、知子制度となるに及んで、その私所有的関係が、次第に稀薄になっていったことがそれである。
これらの時代には、森林山野にある自然の生産物を自由に採取することに対する制限地域は豪族と寺院の占有地のみであって、その他の者は、解放されていたし、前期の豪族は、寺院のものと言えども、かれらは、つとめて、これを開放し自由に農民の入るに任せていたのである。(ただ、特に保有を要する林野に対しては、みだりに伐採・刈取りすることを禁じていたにすぎないものであった)したがって、知行制度の時代に入り、野戦攻城の政策から、支配者が内地政策に関するに及んで、百姓に必要な林野の使用・収益に対して着目したと言うことは、所領からの徴税政策への移行という事実によって、歴史の示すところを理解できるであろう。
徳川時代(旧幕府時代)
農民の総有にゆだねられた林野は、文化の進展に従って少数支配階級の手によって分割集中されていくのは、是非もないことであったが、徳川の「封建幕府時代」に入るや、さらにこの知行・録・が請負制度であるのを幸いにして、多くの大名は、苛斂誅求の拍車を加へその魔手は、林野にまで浸透し行くのであった。
山梨県議会議員 白壁賢一









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