1.最新情報

New Yorkに行って来ました

山梨県議会議員活動リポート・ゴールデンウィークを利用して(自費)にてNew Yorkに行ってまいりました。

県議会の休会中5日間のタイトなスケジュールでしたがニューヨークの治安改善と世界の金融の中心地またセプテンバー・イレブンからの復活をこの目で確認することができ天候にはあまり恵まれませんでしたが有意義な研修となりました。

City of New York は、通称New York City略してNYCと呼ばれています。NYCは、北アメリカ大陸東海岸に位置し、陸地面積は785.5㎡・人口は814万人(2005年)であり、アメリカ合衆国で最大の人口を擁する都市です。

ニューヨーク、ソオホ地区(世界の宝石の街)には旧ユダヤ系富裕層が大勢おります。その方々の高級フルーツは?山梨の桃やブドウなんかを食べてもらうとベスト!!ニューヨークは世界のお金持ちが集まるところ、そして日本から日に何便もエアーが出ている繁盛路線、山梨の朝取り桃をその日のうちに成田に運び12時間でニューヨークへ!!

日本中の果樹地帯が中国・台湾ばかり狙っているのであれば我々はもっと違う本物の富裕層をターゲットに。

ニューヨーク

このまままっすぐ行くとグランドゼロ(テロで崩壊したツインタワー)方面に行きます、土曜日のためビジネスマンの姿より観光客が多く見られました。

ニューヨーク 

歴史(19世紀以前)

 16世紀にフランス国王の命を受けて新大陸の北東部沿岸を探検していたフィレンツェ人ジョヴァンニ・ダ・ヴェラザノが、ニューヨーク湾 New York Bay に上陸したのは1524年のことだ。それまで1万1000年以上の間、現在のニューヨーク市にあたる地域には先住民が暮らしていた。その後は1609年にイギリス人の探検家ヘンリー・ハドソンが、北西航路の開拓中に偶然ここを訪れるまで、この地はヨーロッパ人の介入を免れていた。ハドソンは「開拓しがいのある美しい土地である」と報告し、ここを雇用主であるオランダ東インド会社の所有とした。

 1625年には、オランダからの入植者たちが先住民との毛皮の交易を確立しており、ニュー・ネザーランド New Netherland と呼ばれる植民地の中心に、ニュー・アムステルダム New Amsterdam という交易所を開いた。ヨーロッパでは、温暖な気候と広大な土地を約束するうたい文句でニュー・アムステルダムへの移住が宣伝されていたが、冬期の厳しい寒さのため多くの命が奪われた。オランダ西インド会社のピーター・ミニュイット総督が、わずかな金品と引き換えに先住民からマンハッタン島を買い取ったことは、歴史家たちの間で見解が一致している。しかしその品の価値は、通説となっているUS$24よりも高く、US$600相当だったと思われる(いずれにせよ破格な値段には違いない)。

 オランダとイギリスの間で奪い合いが続いた後、ニュー・アムステルダムは1670年代にイギリスの所有となり、ニューヨーク New York と改名される。ニュー・ジャージー New Jersey やロング・アイランド Long Island では入植者による農地の開拓が始まっていたが、この港町の規模は依然として小さく、現在のウォール街 Wall St の南側からマンハッタン南端までのエリア内に収まっていた。すでに1730年代には反英感情が芽生え始めており、その30年後には現在の市庁舎 City Hall の場所にあったニューヨーク・コモンズ New York's Commons を中心に反英運動が盛り上がった。植民地の人々の感情とは裏腹に、ジョージ3世の軍は独立戦争のほとんどの間ニョーヨークを支配し、戦後2年が経った1783年にようやく去っていった。

 1789年、ウォール街にあるフェデラル・ホール Federal Hall のバルコニーで、ジョージ・ワシントンが初代大統領に就任した。この頃にはニューヨークは人口3万3000人の大規模な港町へと発展していたが、文化的にはフィラデルフィア Philadelphia に後れをとっていた。新しい議会はこの町を後にし、ワシントンDCへ移転した。トマス・ジェファーソンは後にニューヨークのことを、「人間性のあらゆる堕落が流れ込むドブ」と形容している。

 19世紀になると、ニューヨークは急成長を遂げた。1800年に6万5000人だった人口は、1820年には25万人へと膨らんだ。南北戦争中、ニューヨーク市は連邦軍に多くの志願兵を提供した。しかし、戦争が長引くにつれて貧しい市民の多くは非協力的になり、特に徴兵制度が敷かれると反発が起きた。1863年には、US$300払えば徴兵を回避できる富裕層を優遇した制度に憤ったアイルランド移民たちが暴動を起こした。暴動が始まって数日後には、アイルランド人の怒りの矛先は黒人たちへと向けられた。黒人たちこそが戦争の真の原因で、その上自分たちの仕事を奪いかねない脅威だと彼らは感じたのだ。街路では11人以上がリンチされ、黒人の子供たちが住む孤児院が焼き払われた。

 それから19世紀の終わりにかけて、ヨーロッパからの移民によってニューヨークの人口はますます伸びていった。「金ピカ時代」と呼ばれるこの時期は、産業や株取引への規制が緩く、実業家たちは富を大いに膨らませた。彼らが豪邸を構えた5番街 Fifth Ave の南側は「億万長者通り」と呼ばれた。ブロードウェイ Broadway の市庁舎からユニオン・スクエア Union Square までの間には、高層ビルの先駆けとなる多階層の建物がいくつも建設され、そこに企業が本部を構えた。

 1850年に50万人だった人口は、1880年には110万人を超え、2倍以上になった。住宅はアパート住まいが一般的となった。郊外に住む人も増えて発展の速度に地域行政の対応が追いつかず、合併が頻繁に行われた。クイーンズ Queens、スタテン島 Staten Island、ブロンクス Bronx、そして財政難に苦しんでいたブルックリン Brooklyn は、1898年にニューヨーク市の行政区となった。

Cimg0447

歴史(近代)

 1900~30年の間、ヨーロッパからの移民が続々とニューヨークのエリス島 Ellis Island に到着した。人口は伸びる一方で、1900年には300万人強だったが、1930年には700万人と急増した。この時期、馬で引くトロリーが姿を消し、それに取って代わるようにして地下鉄網が敷かれ、高架鉄道が郊外まで線路を伸ばしていった。

 やがて移民たちが政治的な力を持ってくると、改革の必要性が叫ばれるようになった。大恐慌の最中、若い頃にエリス島で通訳として働いたこともあるフィオレロ・ラガーディアが市長に選ばれた。ラガーディア市長は市民に親しまれ、イタリア語のファーストネームを英訳した「Little Flower」(小さな花)という愛称で呼ばれた。3期にわたって市長を務めたラガーディアは、汚職を排し、社会福祉事業を拡大した。同じころ、都市計画の専門家ロバート・モーゼズは市のさまざまなポストを歴任して、ハイウェイの建設や1939年と64年の万国博覧会開催などの公共事業に取り組み、ニューヨークの景観を変えていった。その一方で、トライボロ・ブリッジ Triborough Bridge、リンカーンセンター Lincoln Center、ハイウェイ、大規模住宅地などのモーゼズの事業には、昔ながらの町を根こそぎ取り壊し、そのたびに多くの住民が立ち退きを強いられるという面もあった。

 第二次世界大戦で戦災を免れた数少ない世界的な大都市の一つとして、ニューヨークは戦後、意気揚々と商業に力を注いだ。繁栄は市内だけに留まらなかった。1950年代には新しく建設されたハイウェイのおかげで郊外からの交通が便利になり、何万人ものニューヨーカーが引っ越した。転居は生活の向上という表向きの理由からだけではなかった。白人の住民の多くは、アフリカ系アメリカ人やプエルトリコ人が当然の権利として周りに住み始めたのを嫌い、昔ながらの生活環境が「悪化した」と考えたのだ。

 やがてニューヨーク市は苦難の時代を迎える。役人たちによるさまざまな方面への働きかけも空しく、テレビ制作や製造業の会社などが次々とこの町を出て行った。さらに、この街にとって伝説的存在である野球チームのブルックリン・ドジャーズや、ライバルのニューヨーク・ジャイアンツまでが去っていった。文化に関しては国中が西海岸に注目しており、ニューヨークの人々も同様だった。コミュニケーション技術が発達するにしたがい、都心部にビジネスの拠点を構える必要性がなくなり、企業の移転が相次いだ。市の財政難は深刻化し、1970年代には連邦政府からの莫大な資金投入でなんとか破産を免れている状態だった。

 レーガン政権時代の規制緩和によってウォール街では莫大な利益が生まれ、ニューヨークは息を吹き返した。3期にわたって市長を務めたエド・コッチは派手な性格で、人を魅了すると同時に苛立たせもするニューヨーカーの典型だった。1989年に、コッチは民主党の予備選挙でデビッド・ディンキンズに敗れた。ディンキンズは根っからの民主党員で、ニューヨーク初のアフリカ系アメリカ人の市長となったが、改革が求められていた市政を変えることができず、批判を浴びた。それでも、パトロール警官を増員したことで犯罪率の低下に貢献した。1993年の市長選でディンキンズは、共和党穏健派のルドルフ・ジュリアーニに僅差で敗れた。犯罪の減少と、民主党に強力な対立候補がいなかったことが幸いして、1997年の市長選ではジュリアーニ市長が大差をつけて勝利し、任期を更新した。北カリフォルニアのシリコン・バレーを席巻したテクノロジー・バブルは、ニューヨークでも旋風を巻き起こした。ニューヨークは自前の「シリコン・アレー」を造り、少なくとも数年間は順調だった。ダウンタウンでは至るところで20代の若者たちが、数カ月のうちに誰かに買い取ってもらって引退しようというもくろみで、なにやらよくわからないインターネット事業を立ち上げていた。同じ頃、市当局は数十年ぶりに、待ち望まれていた大規模なインフラ整備計画に着手した。これにはハドソン川の下を通る鉄道トンネルなどが含まれる。タイムズスクエアは、犯罪とドラッグ、性風俗店が溢れる60~70年代のイメージを払拭し、90年代後半にはディズニーランドばりの観光スポットへと変身した。ニューヨークは安全で豊かな街になったが、均質化も進んだ。その一方で貧富の差は拡大し、マンハッタンを先鋭的な町にしていた多彩なサブカルチャーは、郊外へと脱出していった。

歴史(90年代以降)

 2001年9月11日、ニューヨーク名物の喧噪は突如として途切れた。ハイジャックされた2機の旅客機がワールド・トレード・センター World Trade Center のツインタワーに激突したのだ。合衆国本土を襲った最大のテロで、数千人の人々が犠牲となった。ひどい衝撃を受けながらも、ニューヨークはなんとか非常事態を乗り切った。市民は比較的早く普段の生活を取り戻し、ビジネス街の再建と自信の回復に努めた。現場近くの商店や飲食店は営業を再開し、観光客たちが戻ってきた。テロ攻撃の記憶は今もニューヨーカーの心に刻まれているが、グラウンド・ゼロでは新しい建物の再建が始まってい。

        ニューヨーク・グランドゼロ、 テロで崩壊したビルも再開発により着々と工事中              Cimg0486_2

県議会議員 白壁賢一活動リポートより

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。

このブログには、ログインしないとコメントできません。 To comment, please ログイン.

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://www.typepad.com/services/trackback/6a0128759b1499970c0120a69929b7970b

Listed below are links to weblogs that reference New Yorkに行って来ました:

しらかべけんいち(白壁賢一)後援会「白友会」のご案内

ぜひ、ご意見をお聞かせ下さい

みなさん、こんにちは! 山梨県議会議員の白壁賢一(しらかべけんいち)です。当サイトでは、県議会議員・白壁賢一の活動情報や、わたし自身の生の声、また保守系会派「県民クラブ」の紹介などを通して、少しでもお役に立てるようお伝えしていきます。
YouTube版白壁ニュース 議会での模様や気になった日常のヒトコマを記録します。
県議会議員 白壁賢一の「言いたい放題」ブログはYahoo!ブログで更新中です!
山梨県政Q&A
あなたのご意見を山梨県議会へ! 政策ボランティア大募集!

推薦の言葉

「もっともっと、熱く元気に」 山梨県知事 横内正明先生より
もっともっと、熱く元気に」 
山梨県知事 横内正明先生より

もっと知りたくなったらぜひ後援会へ

白壁賢一後援会「白友会」のご案内です
白壁賢一(しらかべ けんいち)後援会「白友会」のご紹介です。わたしと一緒に山梨のもっともっと!を実現しませんか?

サイト内の最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック